2008年11月28日金曜日
でゅーい
「子どもの生活」という観念を教育実践の中心、重力に据えて、それを中心にして
それぞれの教科、学校制度を相互に関連させていく必要性について書かれています。
その中で、工作、家庭科、音楽、美術などの教科が、重要な役割を担ってくるということです。
自分にはすごくすっきりと腑に落ちる話で楽しく読んでいます。
教科、学校、それぞれがそれぞれの方向を向いていては一貫した教育はできないし、
その教育効果もベストなパフォーマンスを出せなくなるのではないでしょうか。
これからの教育は、目に見えて評価のできる「教科」から、
目に見えない「力」の教授へと要求がシフトしてきていると思っています。
しかし、「力」といっても、それは数えだしたらきりがない。
批判的思考力、コミュニケーション力などなど、、無限に存在するし、勝手に新しい「力」を作り出すこともできる。
それを統一する言葉として、「人間力」「生きる力」だのなんだの出てきているけど、
これは単なる便宜上の言葉。
この言葉を使うことによる意味・メリットは残念ながら自分には思いつかないです。
この言葉のデメリットはいくらでも思いつくけど。
そんな状況で、これら無限の求められているものをひとつにまとめる概念を僕は探していました。そして、それはデューイのいう「子どもの生活」にあるのではないかと。
子どもが実際に営む社会生活に即した形で、それぞれの教科を結びつけることで、
必要とされる力にいちいち名前をつけて分割することなく、それらを身につけることができるのではないだろうか、そんな風に思います。
「子ども中心」が「教師中心」か。ゆとりかひきしめか。教育には堂々巡りの二元論がたくさん転がっています。そんな中でデューイの「子どもの生活」という概念は、二元論を飛び出して新しいビジョンを提示しているモデルではないかと思うのです。
そして、自分もそうなりたい。強く思いました。
読み終えたら、またレビューしまーす!
2008年11月26日水曜日
プラトン「メノン」
メノンの「徳は教えられうるか」という問に対し、ソクラテスとメノンが対話によってその解明を目指していく。その中でまずソクラテスは、「徳が教えられうるか知るためには、そもそも徳とは何であるか」を知る必要があると説く。
しかし、「徳」の本質、いわば「核」となる部分を、周りの特殊要件をそぎ落とすことで解明しようとしているソクラテスの議論には疑問を感じる。「徳」の本質を表現できる言葉が仮にあったとしたならば、その言葉こそが、「徳」という言葉に取って代わるべきものではないのだろうか、というアポリアが発生してしまうように感じずにはいられないのだ。
それよりは、「徳」というものはその社会、時代、人間関係間での評価によって価値付けされる「善き行い」の総称であって、流動的、可変的な姿こそ本来の姿ではないのだろうかと思う。
しかしこの議論は、現代にも通じるところがあるように思う。例えば、「徳」の部分を「生きる力」に変えてみよう。
「『生きる力』は教えることができるか?」
「それを教えられるか知るためには、『生きる力』とは何かを知らねばならない」
「生きる力」の本質は何か、というのは根源的、哲学的な問いではなく、社会的、政治的な問いだ。要は自分たちが作り出した言葉なのだから、自分たちで定義を定める必要がある。こんな漠然とした言葉の「本質」をめぐって堂々巡りの議論を交わすくらいならば、自分たちで実践を評価し、「生きる力」という言葉の周囲にどんどん肉付けをしていくという形で、言葉の定義づけをしていく必要があるように思う。
定義可能な「数学」「国語」などの教科から、定義不能な「○○力」を教育することが求められる時代。定義付け、教育方法の固定の不可能性から出発する教育について考えるにあたって、この本は現代にも通じるところがあるのではないかと思う。