メノンの「徳は教えられうるか」という問に対し、ソクラテスとメノンが対話によってその解明を目指していく。その中でまずソクラテスは、「徳が教えられうるか知るためには、そもそも徳とは何であるか」を知る必要があると説く。
しかし、「徳」の本質、いわば「核」となる部分を、周りの特殊要件をそぎ落とすことで解明しようとしているソクラテスの議論には疑問を感じる。「徳」の本質を表現できる言葉が仮にあったとしたならば、その言葉こそが、「徳」という言葉に取って代わるべきものではないのだろうか、というアポリアが発生してしまうように感じずにはいられないのだ。
それよりは、「徳」というものはその社会、時代、人間関係間での評価によって価値付けされる「善き行い」の総称であって、流動的、可変的な姿こそ本来の姿ではないのだろうかと思う。
しかしこの議論は、現代にも通じるところがあるように思う。例えば、「徳」の部分を「生きる力」に変えてみよう。
「『生きる力』は教えることができるか?」
「それを教えられるか知るためには、『生きる力』とは何かを知らねばならない」
「生きる力」の本質は何か、というのは根源的、哲学的な問いではなく、社会的、政治的な問いだ。要は自分たちが作り出した言葉なのだから、自分たちで定義を定める必要がある。こんな漠然とした言葉の「本質」をめぐって堂々巡りの議論を交わすくらいならば、自分たちで実践を評価し、「生きる力」という言葉の周囲にどんどん肉付けをしていくという形で、言葉の定義づけをしていく必要があるように思う。
定義可能な「数学」「国語」などの教科から、定義不能な「○○力」を教育することが求められる時代。定義付け、教育方法の固定の不可能性から出発する教育について考えるにあたって、この本は現代にも通じるところがあるのではないかと思う。
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